怒濤の再帰的人生

テクノロジーとかデジタルコンテンとかそれ以外とか

21世紀のスキッツォイド・オリンピック

とても面白い茂木健一郎さんのツイートが流れてきた

 

そのとても面白い記事

2020volunteers.netlify.com

 

 この記事はいわゆるジョーク系の物であるが、自分のオリンピックに対する考えを整理するためにも今日はこの記事に沿いながらいろいろ書いていく。

 

はじめに -当たり前でネタバレなそれでも難しい前提

 記事を読んだ人ならもう把握していると思うが、一見オリンピックボランティア大賛成派なこの記事は国が掲げる2020年オリンピックボランティアの異常さが書かれた記事である。私も読みながら、最初はなんてこったいと思っていたが最後まで読んで事を納得した。最近東京オリンピックボランティアのステマツイートなどによって、これに関連した話題が敏感に取り上げられるようになっているためできるだけトレンドの空気だけに流されないように注意を払う必要がある。(ボランティアステマツイート関連のことは以下の記事を参考)

muichimonkan.blogspot.com

 

 それと、私はオリンピックの開催自体は賛成である。理由はもう今更「やめます」と言えないからといういささかみっともないものではあるが、事実私も開催は楽しみであるし是非とも開催される競技を観戦しに行きたいと考えている。ただ現状の東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員が掲げるオリンピックボランティアの方針などについては賛成しない、私自身もオリンピックボランティアには参加しないつもりだ。

 

21世紀のスキッツォイド・キャピタリズムとオリンピック

 「ボランティア」というものが話題になったのも「ボランティア元年」である阪神淡路大震災が起きた1995年以降だ。その後も新潟中越沖地震の際や、東日本大震災などを経てこの言葉はより一般的なものに普及した。2011年の今年の漢字が「絆」であったのが何よりの証明だろう。ボランティアは一般的に、見返りを求めない社会奉仕の活動だ。しかし、一方で日本は資本主義の国である。契約者された人が労働して、雇い主から給与を貰う、社会人にとって当たり前だが我々は何か働いたらその見返りとして金を貰うという活動を日常的に行っている。見返りを必要としない奉仕活動の「ボランティア」は、働いた分だけ給与を受け取るシステムの「資本主義」とは根本的に相反している。そしてオリンピック委員会、それだけではなく日本そのものがこの基本的な前提を勘違いしている。大学生のボランティア単位制度や、社会人のボランティアによる昇給制度はこの勘違いの具体例である。

 本来ボランティアを行う対象というのは地震や大雨などの「自然災害」である。これらは予知予防をするのが困難で、尚且つ人々が一方的に損害を被りその責任を負うものが誰もいないのが普通である。ボランティアの活動は、本来これらへの救助であり、その根幹的な支援活動には経済活動は含まれていない。一方で、オリンピックは国家規模での経済行動である。そのため資本主義経済のシステムに従えば、オリンピックの為の労働には給与が払われて当然である。

 

(20/8 加筆) 続きを次回以降も書いていきます

なんで勉強するの? ‐脳の代理に喰われる脳

「道具は身体機能の延長である」

 

例えば馬や車は「走る」という人の動作の延長であり性能の拡張である、ハサミや包丁も「切る・ちぎる」という動作の延長であり手を使うよりも正確で綺麗に行動することができる。「言語」も「思考」の為の道具と考えることもできるかもしれない。

 

「計算機」は「脳」の機能の延長であるといえる。

 

計算などの非言語的思考ができ、翻訳や校正などの言語的思考ができ、メモ帳やカレンダーなどで記録もできる。今後AIの発達により「感情」もソフトウェアによって表現になれば、小型の計算機はいよいよ人の脳と見分けのつかない存在、あるいは脳よりも優る存在になってしまうかもしれない。

 

最近見かけるようになったのが「コンピュータが発達するんだから若い人は勉強しないでいい。もっと起業やプロジェクトなどの実践的な経験をした方がいい」という意見だ。SNSや本なんかを見ると、特にインターネット・スマホの普及によって危機感を感じるようになった年配の実業家や有識者などがこのような事を言っている。彼らはきっと「計算機は脳の代理である」という事を認識し、機械やAIができるようになるような事ではなく、例えばイノベーションを起こすような事業や企画を行った方が良いという考えをしているのであろう。

 

しかし、たとえ今後どれだけコンピュータや人工知能が発達しても、人は学習を続けなければならない。

 

なんでも調べれば出てくる?

 ネット・コンピュータは脳の代理と言ったが、もう既に人間の脳以上の役割を果たすことができる。今の時代は、我々は知りたいことがあれば調べて知ることができる。分からない言葉が出てくればgoogleの検索にかけて意味を調べることができる。外出先にどんなレストランがあるのか、どんなおいしい物が食べられるかはInstagramで検索すれば写真と感想が出てくる。Facebookをみれば自分の友人がどんなことをしているのかを知れる。我々はスマートフォンによって、完全な知る権利を得たのだ。

 

無知の知を知ること

 

 しかしいくら計算機にこのような優れた機能があっても、我々人間には悲しいジレンマがある。我々は知らないことを知ることができない。

 嬉しいことに我々人間は「知らないことを知らないときがある」ということを2000年前から知っている。その昔ソクラテスという名のギリシア人がそんなことを言いふらしながら政治家と喧嘩をしていた、そしてそうした記録が本になって残っている。だが現代においてそのことに気づきながらスマホを使っている人はどのくらいいるだろうか。

 人生への完璧な補佐ツール「スマホ・ネット」を手に入れた我々は人類史上最も傲慢かもしれない。調べればどんなことも知ることが出来る、こうなったらもう未知なる存在はこの世になくなるかもしれない。しかしそれは「計算機」が「入力に対する出力をする」装置であることを知らない人間の無知傲慢なだけである。ウェブ検索機能はインプットされた我々の知りたい情報しか教えてくれない、つまり「我々が知ろうとしたことしか教えてくれない」といことだ。さらに、googleを中心とした検索メディアは我々の趣向に合った情報しか与えないように変化をしている。「フィルターバブル」と呼ばれているこの変動は、我々の知的活動に多大なる影響を与えるだろうと『閉じこもるインターネット』言われている。

 

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

 

 

自分で決める必要性

 上記のように我々はどんな必要な情報でもインプットすれば欲しいアウトプットが返ってくる理想な機械を手に入れた。そんな中我々は自分たちで情報を取捨選択しなければならない。計算機がしてくれることはあくまでも情報の掲示のみである。それもこの情報の提示は我々が調べたいことに対する最適な答えではない、最も今後googleの検索システムやアカウント管理の精度が向上すれば唯一無二の回答を教えてくれるかもしれなくなるが現状はそうではない。我々は結局、自分が知りたいと思った情報を膨大な量の検索結果から探し、そして選び抜いて自力で決めなくてはならない。この作業はインターネットで検索機能を使うのであれば避けられないことである。数万件を超える検索結果から、しかし我々は通常結果画面の上位に位置するようなサイトしか見ないが本来は検索結果全てが対象である、自分が必要とする情報が記述されているものを見つける技術が必要である。例えば評判の悪いまとめサイトや完全匿名のブログなどは正しい検索結果とはいえないだろう。この技術は後天的に身に付けることができるが、最終的な判断が自己による意思決定であるのであればやはり日常的な知識や経験が必須だ。そしてそれらを得るために勉学は必須と言える。

 

電子の世界に偶然はない -知らないことを知れること

 例えば、仮に我々が完璧に検索した結果を分析でき、自分が本当に必要とする情報を手にすることが出来ても、すべてがインターネット上で済むような生活は堕落したものになるだろう。私の考えだが、ネット上で偶然的に全く新しい情報との出会いということはできないだろう。検索という行為がインプットとアウトプットが決まったことである限りは、自身が全く知らない、それこそ知らないことすら知らないことはインターネットでの検索では永遠に手に入れることができない。知らないことすら知らないこととの出会いというのは、例えば本屋巡りのようなものだ。私は普段コンピュータ関係の本か文庫、新書などしか読まないが、ふと自己啓発だとかビジネス書などの棚に訪れて詰みこまれている背表紙のタイトルから新しい興味が得られることもある。この時私が偶然手に取る本はネット上のランキングに乗らないようなマイナーな内容の本かもしれない。そもそもその時自己啓発・ビジネスの棚に足を踏み入れることすら偶然であり、ネットサーフィンをしているだけでは起こりえることではないかもしれない。そして、そうした偶然を作り出すことができるようにするためには日常的に知識を得る作業を続け、自身の知に対するセンスを磨かなければいけない。その行為こそ本とペンとノートを使った学習である。

 

ネット広告はみんな嫌い

人生において絶対に避けられない物として「寿命」とか「空腹」とか「税金」などがある。今これに「ネット広告」が加わろうとしている。

 

誰も気が付かないあたりまえの存在

 まとめ記事なんかを読むときに、画面の両サイドやスクロールの一番下に広告があってもそんなこと誰も気にしなくなった。私たちはTwitterのタイムラインを眺めている時、そこに流れてくる知人のツイートとほとんど同じ形をした広告がさりげなく混ざっていても無視している。私たちはインターネット上に広告があっても、もうそれらを気にしないようになった。どんなウェブサイトを見ても広告からは逃げられないということを私たちが悟ったと同時に、広告側も私たちにばれないように画面の中でカモフラージュしながら存在している。少し前まであったような、たとえば間違って触ってしまいそうな動く広告ややかましいポップアップなどは見かける数が減ってきた、これ人が不快になるような広告はそのままそのサイトへのPV数を減らすことに繋がってしまうため自然淘汰されたと考えていいだろう。というのも今やネット広告はgoogleFacebookなどのインターネット基盤企業の主要収入だから、ユーザーからの評価を落とさず、そして誰にも気づかれることなく広告を見せることが彼らにとって必要不可欠になっているのだ。

 

 

ばれなきゃいい -緑のロボットの狡猾さ

 ネット広告は我々の意識しない所に存在する。ならば私たちもそこまで気にしなくてもいいのではないだろうか。私たちはインターネットの恩恵を十分に使い、広告は無視して生活をするから、どうぞ勝手にしてくださいと考えることもできなくはない。だが現実はそう易々と済ませられるようなことではない。我々は本来決して奪われてはならないものが抵抗できずに奪われている、それは「時間」と「空間」だ。画面をスクロールする際に広告に気を取られる一瞬やyoutubeで動画を見る直前の数秒を我々は無慈悲にも奪われている。これら一つ一つはたった数秒と少ないが、1年間にどれほどの貴重な時間が奪われているだろうか。スマートフォンの画面は、たとえいくらここ数年で大きくなったとはいえアウトプット用インターフェスとして十分なほどの大きさを持っていない。広告はそのわずかなスペースでさえ欲しがる。一度に表示できる情報量は限られているのに、広告はその部分を占有してスマホを使うことの効率を下げる。私はこの時間と空間の横領をネット広告特有の性質だと考えている。

 

 

不快な正体の一部

 ネット広告は非常に非効率だ。たとえばSNS上で友人あるいはまったく知らない他人の近状を知ろうとしているとき、ゲームの広告があるとする。この時ユーザーがネットを使う目的と広告によってレコメンドされたコンテンツの内容は一致しない。これ我々が不快に思う要素の一つだろう。ネット上の広告のほとんどは「これを買え」か「これをダウンロードしろ」のどちらかだ。オンラインで買い物をしているときや新しいアプリケーションを探しているとき以外はこれらの広告内容はユーザーのネットの使用目的と相反している。

 

新しいあなたの隣人

 我々はこれらネット広告から逃れることはできないのか。残念ながら答えはノーだ。スマホのOSや検索システムを実質的に無料で使用している限り、我々はネット広告を永遠に見続けることになるだろう。googlefacebookなどの一流SNS企業がそのプラットフォームを提供し続ける限り、彼らの収入の中心はネット広告であり続けるだろうし、これからも我々に気づかれないように広告は画面に現れ続けるだろう。

 

 

昨日収穫した本 -私は共産主義者ではないという主張とそれに相反する購入品

昨日は従弟(中学一年生)と一緒にジュンク堂池袋本店へ

honto.jp

 

詰み本は電子書籍と紙の本の合計でいくつあるのかもう数えていない

 

以下買った本

 

柄谷行人『世界共和国へ -資本=ネーション=国家を超えて』

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

 

  まず主張したいのは私が過激な共産主義者ではないということと、世界共和国を造ろうだなんて考えていないことと、柄谷行人先生の主張をあくまでも「資本主義」の再考のために捉えていることだ。そもそも買った理由もジュンク堂池袋本店で柄谷行人のフェアをやっていたからであり、入店当時の購入候補には上がっていなかった(最も以前からamazonの欲しいものリストには入っていたが)。一緒にいた中学に通う従弟はどんな本なのかよく分かっていなかったため変な汗をかかずに済んだ。

 

 宇野弘蔵資本論の経済学』

資本論の経済学 (岩波新書 青版 B-67)

資本論の経済学 (岩波新書 青版 B-67)

 

  ここまでくると私がマルクス経済学を勉強していることをもう隠しきれまい。しかし私の専攻はソフトウェア系なのでこれらについて大学で勉強しているわけではない。あくまで個人的な趣味として民主主義と資本主義、そしてインターネットの三点について勉強している。宇野弘蔵は『経済原論』とか『資本論に学ぶ』とかが有名だが、多分今の私の知性で本をとってもただページをめくる作業にしかならないだろう。資本論を勉強してますと言っても入門書を数冊読み終えただけで原典はまだ読みかけな私のレベルは十分にヘッポコだ。

 

田中辰雄 ,山口真一『ネット炎上の研究』

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

 

 池袋のジュンク堂で買えなかったらポチろうと考えていたところ、幸いにも置いてあったため数ページその場で読んでから購入を決めた。インターネットと民主主義は最近の私のブームである。これ以外にもフィルターバブルについて書いてある『閉じこもるインターネット』などを読んでいるため、この本は内容的に関連していて使えると見込んで購入。

 

エドワード・スノーデン『スノーデン 日本への警告』 

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)

 

 

 去年話題になった本を漸く購入。というより散々買おう買おうと思った挙句漸く購入したという気分だ。ネット時代最大のリークで「スノーデン告発」でおなじみスノーデンの本、これもインターネットと民主主義に関わりそう?な気がしたため購入を決意した。

 

 

以上の四つ、まとめてみると世間的に堂々と宣言できなさそうな品々である(特に上の二つは)。積まないでしっかり読みましょう。

そんなにチョロくないオタクとVtuber -受け継がれるテレビ文化

前回は数が増えるVtuberデフレーションと表現したのもを書いた。

timothyauk.hatenablog.com

 

今日もVtuberについて書く

 

 前回書いた通り、私は現状のVtuberコンテンツは停滞していると考えている。その理由として「低品質化」があると上記の記事で説明した。1月に比べ新たにVtuberとして参入するためのプラットフォームが整い始めたことと、文化として低品質化は免れられないことがその詳細である。この理由以外にも私はこのVtuber文化が停滞している理由として、Vtuberは本来youtuberとしてあるべきコンテンツの姿をテレビアニメとして受け継いでいるからだと考えている。

 

1:引き継がれるテレビ文化 ー同じ窓の眺め

 Youtubeの成功はスマートフォンの成功と共にある。インターネットが登場した当初はまだ個人レベルでの共有という習慣が存在しなかったため、映像の文化はテレビの文化であった。そして、テレビは大衆の象徴として大勢が同一の窓口から情報を獲得していた。スマホの登場はこれらの体制を破壊し、個人レベルでの情報のやりとりを可能とした新しい共有の時代の始まりを表した。特にスマホYoutubeのコンビネーションはこの新時代のスタート地点だ。世界規模で拡散するプラットフォームの誕生はこれまでに存在しなかった各個人が自由にチャンネルを選択し視聴するという新次元を開拓した。この個人レベルでの選択と共有はテレビ時代には存在しなかった新しい方法での体験を可能にし、それをこれまで以上の影響力を持って大勢の人々に与えることができた。

 

2:共通時代

 Youtubeはこの流れを引き継いで現代のSNS文化を作り上げている。しかし、これに対しVtuberは未だに、独占する企業が大衆に向けて放送する「テレビ」の文化を引き継いでいる。まず事務所を立ち上げ同盟を組むキャラクターを囲う体制は、個人レベルでの配信共有というSNS文化と相反する。SNSにおいて視聴者と配信者は同等のレベルに存在しなければならず、配信者が上位に立ち、視聴者がそれを一方的に受け入れるのではテレビによって築かれた手段と何ら変わりがない。視聴者と配信者が同じレイヤーに存在し、その二つの距離感を近づけるため「配信側が上位レイヤーの共通の組織に所属する」ということは極力避けるべきである。

 

3:結局はテレビの支配下

 もう一つ、最近のオタク文化の下地にはアニメやスマートフォンゲームによる影響が強いと言われている。これらのコンテンツはこれまで言ったテレビの文化に近い、大企業のような大きな配信者とそれらを一方的に受信する視聴者(参加者)の上下関係によって成り立っている。また「アイドル」というコンテンツも基本的にアイドルと視聴者という主従関係に近い構図で出来ている。これらより、そもそもアニメ趣向だとか二次元美少女趣向さらにアイドル趣向といったものは配信者と視聴者のテレビ的な関係が基底となっている。

 

4:理想郷は小さいコミュニティーに

 上位の配信者と下位の視聴者という古い構造を脱却するヒントは私は現在の小規模Vtuberコミュニティーに存在すると考えている。彼らはお互いに「配信者」として認識し、これまでの上下関係ではなく、全員が個性をもったキャラクターとして相互平等な関係を作り上げている。これこそがSNS時代にあるべき理想的な人間の在り方だというのが私の意見である。

そんなにチョロくないオタクとVtuber -Vtuberデフレーション

前回の「そんなにチョロくないオタクとVtuber -その無意味さ」に続いてVtuber関連のことを書く。

timothyauk.hatenablog.com

 

1.コンテンツとしての停滞 -文化としての未熟さ

 

 今年の初めのブーム以降、活動しているVtuberの数は十倍以上に膨れ上がっている。最近は初心者でもパソコンで簡単に3Dモデルが作れるソフト「VRoid Studio」や、ゲーム実況などの生放送がスマートフォン1台でできるアプリケーション「Mirrativ」のアバター機能「エモモ」などによって、誰でも容易にVtuberで活動できるような環境が整ってきた。

panora.tokyo

panora.tokyo

 

しかし、多くの人がVtuberとしてデビューできるようになったことが、Vtuberがインターネット時代の新たな文化として成功したとは意味しない。この事実は人気ランキングの上位に5月以降にデビューしたVtuberが少ない事や話題性の低さなどとして表れている。私はその理由として挙げられるものが二つある。「低品質化」と「引き継がれるテレビ文化」だ。

2.低品質化 -ロングテール

 現在Vtuberとして活動しているキャラクターは4000人ほどいると言われているが、そのうち世間的に知られているのは一体どれくらいだろう。この記事を書いた8月10日時点では「人気ランキング」に登録されているVtuberの内、チャンネル登録者数が1万を超えているのはたった上位200位ほど、700位ぐらいから登録者数が1000人を下回り、1000位以下あたりからは500人を下回る。数パーセントがVtuber全体のチャンネル登録者数やVtuber全体の総動画再生回数のほとんどを占めているという現状は、少し前のamazonなどでも見られたロングテールパレートの法則ともいう)に似ている。結局世間的に認知され、「成功」と認められるのはこの上位数パーセントのみである。

別にチャンネル登録者数が多いから優れているとか、そうでないといけないとは私は考えていない。ただ、チャンネル登録者数が多くても少なくても、再生数がいくつであっても、同じ「バーチャルユーチューバー」である。登録者数100万を誇るキズナアイと、たった数百の私の知らないVtuberでも、世間からは同じ種類のコンテンツとして同じ目を向けられてしまう。だからこそ小規模なキャラクターが増えるということが、「低品質なものの量産」と考えられてしまう。詳しくは後述するがこれはコンテンツのあり方として間違ったものではない、ただこの事実が良い事として見られないのは確かだろう。

 

3結局は競争社会

 最初に書いた通りここまでVtuberが増えた理由には「誰でも手軽に始められる」ということがある。初期のVtuber達はblenderなどの3D作製用ソフトを使いモデルを作成して作られた(彼ら/彼女たちが実際の仮想空間の住人であったりAIであると本当に信じている人にとって申し訳ないがこれが事実である)。これには3Dモデルを動かすための高性能なパーソナルコンピュータや専用ソフトを動かすための知識や経験などが必要であった。しかし、「にじさんじ」の登場でイラストが動くタイプのVtuberが容認されてから、その容易性が個人で配信することを促した。さらに、今はこの垣根は先述の「VRoid」や「エモモ」などで壊されつつある。

Vtuberが活動する場所が共通のプラットフォームである以上、そこは激しい競争市場(レッドオーシャン)なのである。そのためVtuberとして活動しているのであれば彼らは「人気獲得」を強いられる、キズナアイでもシロでもにじさんじSEEDsでもランキング1000位以下のキャラクターでもだ。たとえその気がなくても彼らが同じ「バーチャルユーチューバー」である限りはこのシステムから逃れることが出来ない。これは誰かが決めたことではなくこの世界が資本主義経済を採用し競争を強いているからである。残念ながらこのVtuber人気競争から逃げるためのブルーオーシャンは存在せず、Vtuberとして活動するならばニッチ戦略や受けのいいキャラクター性などを用いて闘わなければならない。

 

4趣味の世界 -手軽さという昔からの流れ

 ただほとんどの小規模なVtuberは自分が競争世界に存在して人気を得るために精進しなければならないということをそこまで意識してはいないだろう。彼らの内のほとんどは決して人気を得て世界一のVtuberを目指しているわけではなく、あくまでも「趣味」で配信活動をしている。この傾向は以前から「ニコニコ生放送」や「ツイキャス」などでも同様に存在する。ゲーム実況などの動画を公開したり生放送の配信などによって、配信者と偶然的にそれらを発見した視聴者が小さなコミュニティーを形成することはスマートフォンが普及し始めたと同時期から存在する。これはどんな有名配信者と言われる人も通った道であり、また現在小規模で趣味として配信活動をしている人が現在行っていることでもある。

 

Vtuberデフレーション

  このような歴史のような小さな流れを受け継いで、今日でもほとんどのVtuberが少ない登録者数と共に活動している。彼らのような小規模なVtuberは存在は決してバーチャルユーチューバーコンテンツにおいてガンのような存在でもなければ必要悪でもない。ただ、彼らも有名Vtuberと同じ「バーチャルユーチューバー」という名を背負う以上、同じ土俵の上に存在しなければならない。そしてより容易にVtuberとしてデビューできる環境が整うのであれば今後もっとVtuberが増える、結果として「量産された」と思われてしまうのではないだろうか。今後は配信環境の整備以上に1人1人のキャラクターとより多く視聴者を橋渡しする環境、あるいはそんなブームを築き上げる必要があるかもしれない。

そんなにチョロくないオタクとVtuber -その無意味さ

今年に入ってから爆発的な人気を見せているバーチャルユーチューバーこと「Vtuber」。最近知名度がどうとかいう記事があった。

www.moguravr.com

 

1月頃のブームが来た当初、私ははキズナアイやミライアカリなどのいわゆる四天王と言われているようなブームの火付けキャラは一通り見て把握していた。現在は大学が忙しいことや素直な飽きを理由にほとんど見ていない。

 

数か月前にはロート製薬が公式のVtuber「根羽清ココロ」がデビューしたと話題になった。

nlab.itmedia.co.jp

先月には茨城県公式のVtuberがデビュー。自治体がバックアップするような例は初めてだ。

www.itmedia.co.jp

 

6月以降にこのような動きがある以上これらは1月以降のブームにあやかって始まったと考えていいが、ロート製薬の公式Vtuber根羽清ココロのチャンネル登録者数は1万5千人、動画の再生回数は1万回以上のものがほとんどであるため不人気というまではないだろう。

 

しかしこれまでのVtuberの人気の出方と比べ、これらは決して流行ったとは言えないだろう。そもそもVtuberのブーム自体バブル景気のようなものだったというのが私の結論だ。アニメ調のキャラクターにかわいい声が付き、アイドルのような印象を与えるものによってVtuberというコンテンツはブームが牽引された。つまり完全なオタク向けのコンテンツだ、それもオタクが好きになる要素が詰めあわされたお子様セットのようなものだ。今年の1月はそういうのが需要とマッチして火が点いた。今はどうだろうか、上記のような新しいキャラクターや人気Vtuberのテレビ進出などがあるものの、以前ほどの活気は感じられない。これは上位Vtuberの再生回数の停滞などにも表れている。本格的な人気を勝ち取れない新規キャラクターの少なさもある。チャンネル登録者数が50万を超えるVtuberのうち、ほとんどは3月の時点で活動を始めていて。5月以降デビューしたキャラクターはほとんどいなかった。この新キャラクターの未登場も停滞の原因だろう。

 

それでも、たとえ大した人気を獲得できないとしても、今後も新しいものは登場するだろう。これは金になるからという理由より、オタク向け産業だから儲かるだろうという運営側の楽観視があると私は予想している。現実はさほど甘くないというのに、「オタクはかわいい声とキャラクターがあれば喜ぶだろう」という思考が新たに事業を始める人間の暗黙下に潜んでいるのだ。