疾風怒濤の再帰的人生

人生についてとかそれ以外についてとか

圧縮要約 -『異端の時代ーー正統のかたちを求めて』 #2

こんにちは,Timothyです.

 

前回書いた記事の続きをまとめていきます.

timothyauk.hatenablog.com

 

今回はこの本の第二章にあたるところを圧縮要約していきます.

 

前回の記事は「正統」と「異端」がどのようなものか,日本にとってそれらがどういう扱いをされてきたかを簡単に解説しましたが,今回からは本格的に「異端」とはどういうことかを書いていきます.

 

宗教としての「異端」

 まず前提として宗教の構成要素として「正典」「教義」「職制」がある.本書ではこの3要素と関連させながら「正統」について議論する.この章では「正典」と正統についての関連性が書かれている.

 既存の宗教などを見てもほとんどは「正典は正統と異端を定義するもの」と認識されている.これは私たちの感覚からしても正しいと思えることであるが,本当にそうなのかをキリスト教に沿ってこれから議論する.

キリスト教の成立背景と正典の誕生について

 キリスト教は初めから聖書が存在したのではなく,口伝という形をとって伝えられてきたものを保存したりまた各地に広がった教会に対し統一的な基準を設けるために,つまり時代の必要性に応じて結果として聖書という正典が発生したとされている.しかし「新約聖書」という正典を作るに当たって,それらは福音書や手紙といった様々な書簡のリストから選ばれて作成されたわけだが,ではそれらを選ぶための「基準」というの物が必要になるのだが,これこそがいわば「正統」である.つまり正典から正統が生まれるのではなく,正統とされるものから正典が作られたのである.

 また歴史的な流れを追うと,キリスト教において始めて「正典」を作ったのは現在からすると「異端」と呼ばれる宗派であり現在正統とされる「正典」はこれら異端に対抗するために作られたという経緯がある.またこれら「異端」は当初自分たちこそ正統と認識していた.正典の作成は,そこに既に出来ていた正典目録を追認するのみであり,公式に正典を作成する以前の信仰と経験により既に正典が暗黙的に作成されていたと考えられる.

歴史によって正典は「造られる」

 異端とされる宗派は自分たちを正統と信じ通していたものの結果としては消えてしまった.しかし,正典によって正統と異端が定義されたのではなく,元々暗黙的に存在した正統という名の信仰や経験によって正典が確立されたのであれば,異端は異端だから排除されたのではなく,姿を消したから異端だったのであり,それと同じように正統は他を弾圧したから正統なのではなく,生き残ったから正統になったのだと考えられる.異端は正統から抜け出して初めて異端となるが,それが新たな正統となるか邪悪として多少の盛衰を経て消えるのかはわからない.

 正典は正統を作るわけではない.正統は何者かによって作られるようなものではなく自然と形成されるものであり,あらかじめできた正統を正典として追認するだけである.

 

次回は第三章にあたる部分を解説する.

圧縮解説 『死ぬこと以外かすり傷』#1

はじめまして,Timothyです.

 

箕輪厚介さんの『死ぬこと以外かすり傷』を読了したので,書いてある内容の解像度を下げながら簡単な要約解説をしていきます.

(本の詳細情報はamazonのページで確認しよう!)

 

死ぬこと以外かすり傷

死ぬこと以外かすり傷

 

 

第1章 予定調和を破壊せよ

予定調和の意味

この章では「予定調和」という単語が頻繁に出てくるが,この意味をはき違えてはいけないと思う.

予定調和にロジカルに考えても計算通りの物しか生まれない。無難に生きても何も起こらない。誰かが作った道を踏み外す。 (p29)

 

与えられた仕事を段取りどおりにこなす。そうすれば失敗しても大きな傷を負わないだろう。しかし、そんな予定調和からは何も生まれない.(p.36)

 この予定調和というのは決して段取りや手法という意味ではなく,自己を取り巻く社会的な環境や制約といった意味であると思う.むしろ科学的に確立された効率的な手法を「予定調和だ!」といって破壊するのはただの非効率である.著者は社会の空気や世間的な常識にとらわれない生き方を主張しており,既存の環境下で生きるのでは新時代に適応したイノベーションが生まれないとしている.

まずは自分がやれ

 世間のあたりまえや社会のルールといった漠然とした制約を吹っ切って行動を起こすのが第一であると主張したが,そのような行動を起こしても結果として社会的に孤立するようなことは起きず,むしろその革新的行動が周囲の環境を変えることがあるとしている.これが著者の言うところの「熱狂は伝番する」だと思う.逆にルールや習慣といった暗黙化の規則にいつまでも従ったままでいては何も変えることが出来ず,それどころかこのような沈黙は自分自身の習慣として身についてしまうと警告している.

自分の頭で考えた結果「ナンセンス」と思ったことは、相手が誰であろうが声を上げなくてはいけない。(中略)沈黙した瞬間、敗北が始まる。(p40)

まずは声を上げて行動を起こすことが大事であり,その点において社会的な立ち位置や空気といった物は気にする必要はない.むしろそういった要素は現代においては容易に変わることがあり,沈黙することを習慣づけてはいけないと思う.

 

 

google playで東方のCDを買ってオタク精神が蘇った話

始めまして,Timothyです.

 

10月14日からgoogle playiTunes東方projectシリーズの作成者「上海アリス幻樂団」の同人CDや,それに関連した東方projectシリーズの二次創作の同人CDが購入できるようになりました.

東方同人音楽流通

 

早速全て購入

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合計で1万円ほどでした.今まではこういった同人CDを購入するためには販売が始まってから早いうちにアニメイトとかとらのあなで買うか,オンラインで買うかのどちらかだったので,ストリーミングで同人CDが買えるようになればこれまでの同人において問題点であった「初心者の参入の難しさ」や「購入の難しさ」が解消されるのでとてもいいと思います.初版が500万円で中古ショップに並んでいた「蓬莱人形」や限定販売だった「未知の花 魅知の旅」などが購入できるのは私としても非常にうれしい限りです.

東方projectと私

 私はこれまで東方原作作品は旧作を除いてすべてプレイしたことがあり,始めて東方作品関連に触れた時は中学生の時で,時期としては星蓮船が販売されたころでした.ニコニコ動画で流行っていた動画を友達から教えてもらい,それについて調べるとどうも同人のシューティングゲームがあるらしい.しかもそのゲームは昔に従弟の家で見たことがあり,後日アニメイト妖々夢を買って徹夜でプレイしてました.当時その時までアニメも見ず,ゲームも深くやりこまないような私にサブカルチャーへの道を開いたのが東方projectであり,そして今の自分の基礎を作ったのも東方projectです.

コアなファンになることの難しさ

 かくして私は東方projectの熱心なファンになったけれど,中学生に上海アリス幻樂団の楽曲CDを揃えるのは難しかったです.同人イベントなどに行く財力もなく,まだオンラインでCDを買う知識もなかったためアニメイトで並んでる原作ゲームを買うことが出来ても,古い楽曲CDを買うことはありませんでした.それでもCDの曲を聞きたかったがため,当時はyoutubeニコニコ動画にアップロードされていたのを聞いてました(もちろんこれらは今ではアウトなことです,当時の私は最低なファンですね).コアなファンになることは金と時間がかかり,財力は乏しいのにサブカルへの好奇心が増える中学生ぐらいの子にとっては難しいことです.しかし,ストリーミングで同人CDを買えるようになった今日からは当時の私のような悩みを持つファンもいなくなるでしょう.

圧縮要約 -『異端の時代ーー正統のかたちを求めて』 #1

こんにちは,Timothyです.


こんな本を手にしました.

 

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)

 

 

 
夏ごろにTwitterでこの本を見かけそれ以降Amazonのほしいものリストに入れっぱなしだったのと,最近図書館の最新入荷図書として取り上げられていたのを見かけたので借りました.


導入部を読む限り政治についてとか丸山眞男についての前提知識が必要そうなのですが,あいにく私はそういったことを深く習得していないので,理解できる限りで内容をまとめてみようと思います.

 


正統と異端について

 導入部において,政治や宗教における「正統」と「異端」の出現について語られていた.前のアメリカ大統領選挙でトランプが当選した事実をもとに,彼が正統的な手続きを得て出現した異端であると表現した.その正統や異端とはどういうことかというのを,本書では丸山眞男の理論を用いて説明している.まず正統とは「L正統」と「O正統」の二種類に分類している.「L正統」とは血統や世襲等による権力継承的な理論であり,「O正統」は教義や信条や教典などによる共同体における解釈的な理論である.それに対し「異端」とは,丸山はやや皮肉的に「自分は正統,相手は異端」というレッテルの張り合いでしかないと説明している.


日本における正統と異端

 ヨーロッパでは中世においてカトリック教に対する宗教改革運動としてコミュニズム内で正統と異端の闘争が起きたり,中国とソ連マルクス主義に関し「自分は正統,相手は異端」の理論を互いに展開しあったとしていたが,果たして日本において正統と異端の歴史はあっただろうかと筆者は問う.これに対し丸山の理論を用いると,元来の日本にはL正統のような天皇制が存在していたが,それらは結局第二次世界対戦の後にそれらと対峙していたマルクス主義と共にO正統に落ち着いたとされている.また丸山は日本の他国と日本の状況を比較し,日本は「異端好き」であると評価している.なぜなら日本の国家にはもともの教典や信条等といった,正統を定義する宗教的な枠付けが存在しておらず,さらに日本人が普遍的な理念への理解や絶対者への信仰などが苦手であったからだと説明している.


現代にも繋がる問題

 また丸山は,日本の異端はダイナミズムを発揮しない伝統的な批評パターンであると批判している.またこれに対し,異端でありながらも正統を求道し続けた「日本における理想的な異端」として親鸞を取り上げていた.また近代における「日本的な異端」の克服方法として「根底的な精神的貴族主義がら根底的な民主主義の内面と結び付く」をしていた.

 最近同じような内容をした本を読んだ,箕輪厚介さんの『死ぬこと以外かすり傷』だ.

死ぬこと以外かすり傷

死ぬこと以外かすり傷

 

 

 落合陽一も同じようなことをいっていた気がする,最近の流行なのだろうか.

 つまりは大衆に埋もれず自分自身を磨くことや,自分自身の価値観を産み出しそれを手を動かして伝えろ,といったとこだろうか.丸山も近代主義の問題点として,巨大化して孤独化した現代の大衆がたやすく世論操作されてしまうと指摘し,その解決方法として大衆や世論への追随を戒めて精神の孤立を貫くと解説していた.これには現代の風潮と似かよった内容であると思う.


今回は第1章のみであるが,明日以降第2章についても記事をだし,内容についてまとめてみる.

 

意思決定ミスの責任をAIに押し付ける話

Timothyです.

 

Amazon関連のニュースを読みました.

gigazine.net

AIは悪者なのでしょうか?

 

いつものタイトル詐欺

 タイトルだけから判断するとまるで「AIが人種差別をした」みたいに見えますが,それは記事で書かれていることおよび元の英文記事で書かれている事実は異なります.記事の中でも言及されている通り,本当の問題は「Amazonのコンピューター・モデルが過去10年間の履歴書パターンによって学習を行っていたため。」と書いてあります.つまりAIがインプットを読み取った結果,統計的にそういうアウトプットが産まれてしまったということになります.

AIに責任はあるのか?

 確かに事実として雇用システムに用いたAIが女性より男性を優先的に判断しました.しかしだからといって軽率に「AIは間違った判断を起こすから信用ならない!」と思うのはよくありません.本当にAIによる意思決定の責任はAIにあるのでしょうか.

 AIは一般的に平等な判断をしてくれると思われていますが,それは間違いです.たとえAIだとしても,それがコンピュータである以上,意思決定は統計的な情報を元に行われます.今回のAmazonの事例のように「過去10年で女性より男性の方が多く雇用されていた」というような統計があれば,AIはもちろんその理論を採用します.また,統計した結果は「事実」であり「現実」です.つまり,統計した事実から意思決定をしたAIに責任があるのではなく,その「事実」に問題があるという観点を考慮しなかった事が本当の問題点です.

大人による都合のいい責任の逃れ方

 最近は定期的に今回のAmazon記事のような「AIが人種差別のような判断をした」や「AIが女性軽視をした」というニュースを見かけます.そのたびになんだか「AIは間違った判断をしてしまうのでは?」という印象を持たせるような意見や感想を目にすることがありますが,AIによる問題の責任をAIに押し付けるのは間違いであり,本当の責任の所在地はそのAIを設計した人間側にあります.差別が深刻な社会問題として取り上げられている現代でAIによる意思決定のサポートを受けるのであれば,そういった社会問題の克服をを前提にシステムを開発しなければなりません.例えば「差別的判断をなくす」という目的を据えているのに,男性が多く雇用されている過去の統計データを用いるというのはAIの判断ミスではなくシステム設計エンジニアの考慮不足と考えられます.それなのに「AIが悪い」などというのはその設計者に都合のいい責任逃れなだけです.AIが今後の社会問題に活用できたり,企業の運営の手助けになるのは間違いありません.AIを設計するのが人間である以上,問題の責任は必ず人間側にあるようにしなければなりません.

頭の中の何かについて

こんにちは,Timothyです.

 

前回の記事で紹介した『記号論への招待』を少し読んでからまとめた,自分自身の「情報と知識と知識を得ること」に対する考えをある程度まとめてみる.

timothyauk.hatenablog.com

 

知識と情報と頭の中の”何か”の違い

 これは本には書いていないことではあるが,今後の話を進めるうえで必要な事柄なので簡単に説明する.

 情報とは「事実やデータの羅列,またはそれらを伝えるしらせ」である.情報は私たちが認知するすべての事柄である.視覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚などの五感によって感じる私たちの身の回りのすべてのことは情報であり,また自らの行動や無意識的な活動などのメタ的な要素もすべて含んで情報である.

 それに対し知識というのは,一般的には「情報の内から必要な事柄を抽出したもの」や「情報を分析した結果やそこから得られる経験的な事象」などと表現されるが,私は知識はより表現的な事象だと考える.つまり,知識は自身の頭の中で漠然と存在する”何か”を言語や符号など用いて外部に表現したものである.

 では「頭の中で漠然と存在する”何か”」とは何であろうか.多くの人はその”何か”を「知識」と定義しているのだが,私はその定義だと「日常生活における個性の非同一性」について意味を包括していないことになってしまうと思う.知識は不変で常に同一性が保たれているものと考えれらているが,人のアイデンティティというのは決して常に同一なものではない.例えば家族の前と仕事仲間の前ではその人との接し方が変わることがある.その時の気分や体調によって日常の活動における意思決定が変わることもあるだろう.このように人の行動や感覚は流動的なものであり同一性が必ずしも保たれるものではない,これを不変的事項である「知識」という言葉で表すのは不適切だと私は考えている.

 私はこの「頭の中で漠然と存在する”何か”」を「コード」と定義したい(これは「規則」という意味のコードでもあり,脳というハードウェアに対する「ソースコード」でもあるダブルミーニングである).このコードというものは『記号論への招待』において使われている「伝達において用いられる記号とその意味,および記号の結合の仕方についての規定」という意味も包括している.しかし私の意味したい「コード」は本の中で用いられる人類共通のイデアのような意味ではなく,各個人が自身の内で定義するものである.つまり「コード」とは,「情報」に対してすべての人が自身の中で定義した,非言語的な概念(感情や情緒)を言語や符号に対応させるための規約や法則である.この人々が自身の「コード」に対応させて表現されたものこそ知識だと私は考えている.人は認知した情報を自身の持つ「コード」と照らし合わせ,それを「知識」として言語や符号で表現する.

 

記号論を勉強し始めた話

Timothyです。
 
最近こんな本を読み始めました。

 

記号論への招待 (岩波新書)

記号論への招待 (岩波新書)

 

 

 

読み始めた経緯

 私は大学では情報系の学科に属しているため、大学生活においてこういった分野に触れる機会はほとんどない。ではなぜ手に取ったのかというと記号論ゲームデザインにも応用ができるからです。
詳細については記事を読んでいただきたいです。要約すると「昔のゲームはハードウェアの性能が低かったから、それを補うために背景などのイラストが記号的な使い方をされていたけど、これは現代でも同じだよね」みたいな感じです。つまりゲームデザイン(作る人的な)をする上で記号論の知識は役に立つということです。(まぁこういった知識はいきる上でも役に立ちそうです)